2010年2月 5日

「クレーン」31号(前橋市)

【「こんな私です」わだしんいちろう】
表題は癌、肺炎、心筋梗塞に加えて精神t科の治療も受けている妻が、主人公である夫に告げたひと言。冒頭の妻の描写に引き込まれたし、女医との遣り取りも実感がある。病院を出た主人公は付き合っている女性のマンションへ。それからインタビュー相手の男のマンションへ。仕事を思えて自宅に帰り高校生の息子と食事という1日が語られている。それぞれの場面は興味深く描写も説得力あるのだが、各おの独立した短編を読んでいるようだった。通奏低音のようなつながったイメージを感じ取ることができなかった。当方が理解できないだけで、作者はこの「つながらなさ」を描きたかったのだろうか。

2010年2月 3日

文芸誌「O(オー)第39号 渡辺たづ子「ツクヨミ」《連作「祈り」》その1

 日本の古典に疎い私は、まずタイトルの「ツクヨミ」の意味が分からなかった。ネットで調べたら「月の神」のようである。
 ミホは父母と3人暮らし。母は保育士として定年まで務めあげ、今はパートで保育所に通っている。父は定年後も嘱託として同じ職場に通っている。
 ある日、ミホは職場で38度8分の熱を出し、早退する。
 母は若い頃、流産を繰り返し、あきらめかけた頃、ミホを宿したのだという。小学校の高学年頃まで、母は毎晩ベッドの中で本を読んでくれた。一番好きだったのが、日本神話シリーズの中にあった月の神様のはなしだった。最初のページの挿絵の白い着物の女性に惹かれる。母に聞くと巫女さんとのこと。その後、ミホは巫女さんの夢をみる。
 「この夢は、その後もくっきりと私の中に残っていた。わたしは繰り返しその光を思い、声を思い、その温かみをなぞった。身体の、真ん中を走る一筋の光は、やがて私の中で白い道となった。」
 ミホは、数々の夢を見る。
 「わたしは母に助けられたのだ。
 素直に思う時、母の中にも神様の宿る場所があるのだと、感じることができる。どこかとても深い所で、母は私の危機を感じ取ってくれたのだ。あの黒いひとがたが母だったように、白装束の巫女さんもまた母だったかもしれないと、そんなふうにも思えてきたりする。」
 私も、ここのところ、毎晩、不思議な夢を見ている。目覚めてしまえば、再現できない夢が多いが、ここのところ「O(オー)」の渡辺たづ子さんの「夢の世界」に興味を持っている。

                            原文は金児至誠堂

2010年2月 2日

文芸誌O(佐久市)40号、42号

 「O(オー)」43号の渡辺たづ子の作品『水の井戸』を読み、他にはどんな作品を書いているのか、バックナンバーに当たってみた。
 第40号には『光の衣に包まれて』、第42号には『ピエタ』があった。
 『光の衣に包まれて』は親子の問題を、フリースクールの岸田先生を軸に展開して行く。
 『ピエタ』は母とフリーターの息子の問題がテーマ。思い立ってサンピエトロ寺院のミケランジェロのピエタを身に行 く。途上で、偶然、同年の友人の娘と同じ飛行機に乗り合わせ、様々な会話の中に、親と子の問題が浮かびあがってくる。
 2作とも、私の現実で直面している現実と近接しているので、詳しいことは書けない、2作とも深く感銘を受けた作品だった。
 「やり直せない過去を悔やむのではなく、その思いを、この先どんな形にして補ってIいくかが大切なのだ。」
 『ピエタ』の中のこの言葉が、私にとってもこれからの指針になると思う。 


                         転載・原文は金児至誠堂

文芸誌O(オー)《佐久市》・43号

 文芸誌「O(オー)」43号に掲載されている小説3編を読んだ。一時に3作も読むと、ここのところ、記憶力が薄れてきているので、それぞれの感想はかけないが、3作とも引き込まれ一気に読んだ。

 佐武 寛『父の越えて来た歳月』。
 サブタイトルは英文で UNCONDITIONAL SURRENDER OF JAPANN ---とある。「日本の無条件降伏」という意味だろうか。
 真理は料亭の女将で二人の女の子の母親。父から送られてくる詩、手紙を介して、作者の戦争体験、歴史観、世界観が展開される。読み応えのある作品である。

 内村 和『りんごの花咲く頃
 主人公、内藤 司は今、肝硬変を患っている。親戚縁者との付き合いも、親の介護もすべて妹に任せてきたのだが、司にしてみれば、常に体を張って懸命に生きてきたという思いはある。
 今の住居を引き払い、父の建てた今では、廃屋状態の故郷の家に帰ることにする。7年一緒に暮らし、家を出て行った妻のこと、など今までの経緯が語られる。故郷の家には今では珍しくなったリンゴ国光が植わっている。7年同居した女性真理子は、既になくなっていたが、父は折りにふれリンゴを送り続けていた。真理子はタイ生まれの孤児を幼女にして育てたいた。司は、真理子に侘びる気持で、一人ぼっちの幼女「比呂」に財産分与を決意する。それが司の締め括りの、三尺玉には及びもつかないが、花火だった。

 渡辺たづ子『水の井戸
 祖母の一日は神ごとに始まって、神ごとで終わる。私の祖母はシャーマンである。
父は母親である祖母を避けていた。それは祖母が神ごとをする人だからだ。祖母が神ごとをするようになったのは、
四十代の半ば頃からという。祖母とともに過した人間ドラマ興味深く読んだ。
 ここまで来て、小説の感想を書くことの危険さを感じている。書いた私の文章の中に本人の軌跡もいやおうなく入り込んでしまうことである。

                        転載・原文は金児至誠堂

「層」(長野市)111号

 「層」新年会から持ち帰った同人誌は、読んでしまったので、締め括りは、私の所属する同人誌「層」と言うことになった。ここのところ、若手がなぜか退会したり、多難な長野ペンクラブである。
 まず、規約から。「第一条 この会は月例研究会と、機関紙「層」をもち、文学の切磋琢磨を目的とする。」とある。
まず、月例研究会は人集まりが悪く、まず隔月になり、会場「勤労者福祉センター」が取り壊されたという外部的要因により、「層」発行時の集りになった。それと「文学の切磋琢磨」は私は違和感を感じる。表現としての言語は「表現される以前には存在しない」のだから、各自、自由に書けばいいのだ。以前は如何にしたら「賞」が取れるかと言う「予備校」的要素もあったようだが、もはや皆、そんな年ではないだろう。
 「層」111号を見ると、諸氏はそうした呪縛から解放され自由に書いているようだ。
 村上青二郎『売る人買う人』 村上さんは文学の勉強の一区切りとして短編小説集「金沢夜景」を出版した。そして、この本を売る話である。書き出しは映画「男はつらいよ」から。「あの寅さんというのは、どうしてあんなに自分の仕事を卑下するのか、---」という奥さんの言葉から始まる。寅さんの売り方は例の「啖呵売(たんかばい)」から始まる。「見上げてご覧よ屋根屋のフンドシ---云々」。広告でいえば、「コンセプト」「ターゲット」「ポジショニング」を明確にして、「キャッチコピー」を考え「ボディーコピー」を作り広告・宣伝し、買い手をその気にさせるのが基本。
 収載作品「浅野川」「箸の先」「金沢夜景」「朝顔」「心あり」「鉄路の果て」から訴求点を抽出しコピーを仕上げて行く。男と女、家族、友情、自死、労働組合、リストラ、---等現代の問題がすべて含まれている。今日、6作品を通して読んで、この本は多くの人に読んでもらいたいと私は思った。
 宮澤 尚子『秋は来にけり』 様々な本を読み、勉強しすぎ。もっと力を抜いて、秋に自分の周りで起こったことなどを気楽に書けばいい読み物になる。「切磋琢磨」はもういらない。
 ちり あくた『eve(前夜)』 日本経済の大破綻。これは、近い将来ではなく、わが家では既にリストラの風に吹かれてその只中にある。概して、この文章も力み過ぎで、自慢が多い。もっとソフトタッチでユーモラスに書けば「信州の東京」の編集者も喜ぶだろう。
 尾沼志づゑ 短歌『朝の卵』 
  朝は朝な卵を割りて幾十年というはわれの朝なり
  萩の駅なる冠着よ花絶えにして霧雨の降る
   情景が目に浮かぶ
 きたの はじめ、島田亜紀の作品も「童話的要素」があり、「切磋琢磨」からは逃れられたと思う。
  小田切芳郎『雪崩の谷』第10回 この連載を楽しみにしている人が多い。「楽しくなければ文学ではない」!

                        転載・原文は金児至誠堂

「構想」(東御市)47号

 「構想」には4編の小説と、評論が2編収載されている。小説は、まず陽羅義光(ひら・よしみつ)の『雁木坂』。過酷な人生を描いた、重厚な作品。私はこの陽羅義光という作家を知らなかった。ネットでプロフィールを見る。昭和21年生まれで『太宰治新論』、『道元の風』、『吉永小百合論』等を書いている。実母が入水自殺。そのショックもあり、長期間精神不安定状態が続く、ともある。
 『雁木坂』は陽羅義光氏の人生を集約、或いは要約しているようにも読める。
 「還暦を過ぎて、久しぶりにわたしは雁木坂に来た。上から見下ろす雁木坂は、黄昏どきだったせいか、なんとも冴えない殺伐とした坂であった。」「-----蕎麦屋の壁の鏡に、己の老いむくんだ顔が見える。友曰く、哀愁と孤独を湛えた、四十代の頃の表情はどこにもない。それでなにも問題はない。感傷も寂寥も何処かに置き忘れた、冴えない殺伐とした顔で、あれから二十年間を生き抜いてきたのだから。」身につまされる思いがする。
 藤田愛子『妄想同盟』 前作『披露山中毒』と同じ、披露山の別荘地が舞台。主人公の女性と二人の男性に、まつわる妄想の物語。【性に関したことわざで、よく「女は灰になるまで」とか言います。それは男の同じであって、性行為そのものがどうだということではなくて、老人の新密度も男女の性的な関係がある。老人たちがグループをつくって、楽しいとか気分が晴れたとかいう第一の要因は、男女のそれじゃないでしょうか。---】吉本隆明『老いの流儀』から---妄想の連鎖は泊まらない。
 崎村 裕『ゴロちゃん』 高等学校の同級生の訃報を聞き、少年時代から続くゴロちゃん、倉根吾郎との思い出を再現して行く。主人公にとって、二人は掛け替えのない友だったのだ。私にとっての「掛け替えのない友」の二十年以上前に他界してしまった。取り返しのつかない運命である。
 ゴロちゃんは、奥さんに、よっちゃんに返して欲しいとビロードの小箱を託す。それは、よっちゃんにもらって大事にしていた小さな虫が閉じ込められた琥珀だった。出来すぎた結末とは思うが、羨ましい結末である。
 島田喜美子『石の門のある家』 家族代々の歴史を記そうとする大河小説で連載である。いずれ、読んで見たいと思うが、今回は間に合わない。評論2編も後ほどという事にしよう。

                         転載・原文は金児至誠堂

「蠍」(諏訪市)49号

 同人誌「蠍」49号に芦川次郎さんが【「蠍文学」誕生までの経緯(その1)】を書いている。
創刊号は昭和27年(1952年)とある。今年で58年目と言うことになる。驚くことは、創刊号の編集人が芦川次郎氏だということ。誌名は最初「かんぼく」で「信濃文学」から「濁流」になり、そして「蠍」になる。一方「信濃文学」は分裂し一方が「蠍」になり、もう一方が「五季」になったとのことである。
 それにしても、同一人物が創刊号から58年、後2年で還暦になるまで継続しているのは壮観である。
今度の号は原田勝史氏、森 亜人氏、太田 伝氏、青木 創氏、それぞれが小説の秀作を発表している。小説好きの長い年月を共にしてきた仲間の人たちには、ある種の羨望を感じる。
 私が同人雑誌に初めて雑文を書いたのは昭和39年(1964年)、昨年末亡くなった岩崎重夫氏主宰の「三文評論」だった。五里霧中、無我夢中で書いたので、自分のことで精一杯で、一応、編集委員にはなっていたけれども、本人の書いたものしか読むゆとりが無かった。それでも46年の時間が経過している。
 今、少しずつバックナンバーをながめているが、執筆者・同人の熱心さと水準の高さに驚いている。当時、私は「アンドレ・マルロー」についての断片を書いていたが、当時、執筆者の中に、マルロー・ファンが多かったことに気がつかなかった。馬車馬のように書き続けた事が恥ずかしいが、いまさらどうにもならない。「書けない、書けない」といいながら書いていた私の文章に「書けなかったら、書かなければいいのです。」と忠告を寄せた人がいた。あとで気がついたが、その人はプルーストの翻訳家の某氏だった。
 それにつけても「蠍」の芦川次郎氏のように、明確な意識の中で同人誌を続けてきた人が羨ましい。


                        転載・原文は金児至誠堂

「科野作家」(諏訪市)23号

 2009年11月発行の同人誌「科野作家」(23号)には10編の作品が載っている。1作品、小沢正男の評論【或る一つの「行人」試論】を除いて、私は漱石が苦手で「行人」は読んでないので、ほかの9作品は、それぞれ印象深く読んだ。
 由比圭司『鏡の中の風景』。昨年は「1968年」の本がなぜか多数出た『村上春樹と小坂修平の1968年』、鹿島茂の『吉本隆明1968」、小熊英二『1968』上・下巻。由比圭司の作品の中にも東大安田講堂の攻防戦で最後まで安田砦に立てこもった今井 澄の物語りも織り込まれている。私はいま、昨年末亡くなった同人誌「三文評論」を主宰した岩崎重夫さんの思い出を1960年がらみで調べているが、そんな心境で読んだので、『鏡の中の世界』は印象深く読んだ。
 島田震作『水面(みなも)まで』も心に沁みる作品だった。〈科学忍者隊ガッチャマン〉遊びを仲間としているうちに、池に嵌って水死してしまう友達の妹の30数年前の出来事の忘れられない記憶。『水面まで』の感想は、時間をかけて考えてみたい。
 島田悦子の『献体の遺骨帰る』。末尾にある解剖した学生の感想文『いよいよご遺体と別れる最後の授業の折、銘銘が世話になったご遺体に花束を供えた。僕はそのなかに三本の煙草を入れておいた。肺が真っ黒で煙草が大好きそうだったから------』 肺の黒さも生きた証なのだ。
 一瀬 琢『白金台に雲流れ』 登場拒否児童が、幾多の困難を乗り越えて明治学園大学を卒業するまでの感動のドラマ。
 小畠喜代子『記憶の足跡』 臨床美術士(ボランティア)という聞きなれない仕事について掻いている。「薄れゆく記憶」の中にいる私にとっても、身につまされる作品である。
 澤 草子『小春日和』 「薄れゆく記憶」と家族。亡くなった我がははのことを思い出しながら読んだ。
 気賀沢清司『アイーダ』 デリヘルの世界で働き生きている、女と男たちの生き様を、身近な世界として描いている。

                  転載・原文は金児至誠堂

「橋」(飯田市)61号

 長野県内の同人誌十誌が集って、「信州文芸誌協会」という会を組織している。私は「層」という同人誌を出している長野ペンクラブに所属している。
 先日、同人誌「層」の総会・新年会があり、そこで各同人誌の間で交換している雑誌の内、何冊かを入手してきた。
 まず、そのうちの一冊、飯田方面で出ている「橋」61号から読み始めた。この号は2008年に亡くなった「串原義直追悼号」として2009年10月に発行された。
 詩、川柳、短歌、エッセイ、創作とそれぞれ力作、佳作が揃っている。そして、一般には手に入らない作品を読むことが出来るという楽しみがある。
 特に印象に残った米山恵美子さんの作品に触れておく。

 【短歌】夫と真迎う 19首のうちから 
 海馬痩せアルツハイマーと告げられし夫の胸中如何ばかりなる
 薄れゆく記憶を留めおかむとし語学講座を夫の聴きゑる
 紙の類そこここにある夫の部屋を覗くだけにて立ち入り不能
 文殊菩薩の静かな思惟の表情を見つむれば無の先の明るさ
 四十年の夫婦の絆消しがたくひと日の無事をただ願うのみ
 
 【エッセイ】一脚の椅子
 交通事故で片足を切断してしまった友人との交流を淡々と書いている。末尾の追悼歌を掲出しておく。6首のうち  から。
 交通禍に切断せし友の脚納まりたりし白き骨壷
 「死にたいと思ったこともあったの」と淡々という笑みさへ浮かべ
 樹の下の一脚の椅子ぽつねんと西日を返す座る人なく

 【創作】甘夏柑
 結びの部分を引用しておく。石野から送られてきた甘夏を夫は食べようとしない。
 「日常の生活の中で、ちょっとした諍いがあると、今でも石野のことを思い出す和子であった。思い出して行動にう つすというわけでわはないが、懐かしさを胸にして眠り、夢の中で彼と会うのが唯一の楽しみなのである。プラトニ ックな愛として育てたものは、いつまでも鮮烈な思い出として残るものらしい。
 棚の甘夏柑が一段と輝きを増して見える。」

                     転載・原文は金児至誠堂

「風」(岡谷市)82号

 岡谷市で発行されている同人誌「風 詩と散文」平成21年11月発行を読んだ。「詩と散文」というサブタイトルgは付いているだけあって、すべて素直な文章で、長編は無く、短い文章が多かったので読みやすかった。
 宮坂幸雄 小説『憧憬(しょうけい)』
 それが人生の宝物になったという、高校時代の弁論部の思い出がいきいきと書かれていた。
 山岡清武『退院まで』
 病気知らずに生きてきた作者の、初めての入院体験。初めての体験には発見がある。病院の様子、妻とのやり取りが目に浮かぶようである。
 宮澤 薫『弟』
 2年前、「大動脈乖離」という病気で夫を亡くした。弟も夫と同じ病気に襲われ、6時間の手術で、一命を取り留める。取り巻く家族のエピソードを織り込みながら、俳句と散文で、人生の一断面を書いている。
 掛川千恵子 小説『昔日の別れ』
 小学校卒業後、半世紀になつ時点で、同級生達のその後、近況などを綴っている。同級生達の身の上に起こった様々な事件、これだけ多くの同級生との係わりがあるのは、私にとっては、羨ましい。
 阿部良行『節っちゃ』
 母親は、作者が生まれて19ヶ月の時亡くなっ。父親は病気価値だった。姉、説子に出会いのばを設定してもらい作者は結婚する。義兄に就職の世話をしたもらう。しかし、その義兄も58歳で無くなる。その上、説子もアルコールとは縁の無かったが、肝臓の病気で他界する。姉、節子は作者を背負い続けての一生だった、が結び。このような人生もあるのだ。
 渕井恵子 小説『幸せの行方』
 金婚の年を迎えた直子は、後期高齢者という名前の枠に入れられる。俊夫となお子は金婚の記念の旅行に踏み切る。俊夫は出好きな性格で、声がかかるといそいそと出かけていったが、79歳になった今も、妻に呼びかけて旅行することは殆んど無かった。なお子も夫退職後の10年余を母の介護に明け暮れた。
 旅行先は、愛知県の蒲郡市の海辺に或る公共の宿だった。寂れた宿と、粗末な料理、温泉ではなく沸かし湯だった、情景が目に浮かぶようである。身につまされる人生の断面を見る。
                                   
                  転載・原文は金児至誠堂 

2010年1月25日

「銀座線」第15号(東京都杉並区)

【「秋の陽は林檎のかおり」石原惠子】
瑠璃子は修(しゅう)とふたり暮らし。修には前妻との間にもうすぐ18歳になる子どもがいる。瑠璃子の夢に学生時代つき合っていた哲(さとる)が現れるようになる。夢の舞台は当時いっしょに暮らしていたアパートで、だんだんと夢と現実の境が曖昧になる。夢の内容を修に話す様も、嫌がるふうでもなく聞いている修も、不自然さはなく穏やかな時間が流れている。その場の空気を描き出す、細部まで行き届いた表現も好ましい。瑠璃子の中に流れている、ふたりの男の気配が濃厚に感じられる。心地よくって、ちょっと怖い作品でした。

【「流れる川」河井友大】
近未来なのだろうか。環境汚染が進んだスラムのような町が舞台。人びとの生活は汚れた川の水で成り立っている。屋台で出す料理は川の水の油臭さを消すために濃い味付けになり、どんどんエスカレートしてゆく。健康被害も出ているが、人びとは川から離れられない。気づかないうちに引き返せない地点までエスカレートした生活や水を懐かしむ気持ちなど、こちらの無意識の奥を揺さぶられたような感じがした。希望のない世界だけど、読後感がいい。イミカとK君も内面を説明的に書き連ねるのではなく、描写でくっきりと描き出している。

「小説π」第10号(さいたま市大宮区)

「前夜-北京・二〇〇七年 晩秋-」
主人公、藍子は北京在住の礼子を訪ね、河南省の開封へも足をのばして以前つき合っていた男性と再会する。別れた事情など、藍子のこれまでの生活が巧みに盛り込まれている。観光客では知り得ない北京での生活や地方都市の様子が細かく描写されていて、興味深く読んだ。しかし、あまりにスムーズで、登場人物も良い人ばかり。オリンピックの準備が急ピッチで進む北京も、急激な経済成長の中にある地方都市も報告的に描かれている。未知の物や事態に遭遇した時の違和や嫌悪がもっと書き込まれていたら、作品の印象が更に鮮明になったのではないだろうか。人間だもの、棘もあっていいと思う。

2010年1月19日

「相模文芸」19号(神奈川県)

2010年1月19日 (火)付、「文芸同志会通信」http://bungei.cocolog-nifty.com/より転載いたします。

 本誌はエネルギッシュな書き手の集まりで、ショートショートあり、ユーモアコントあり、評論ありで、総合文芸的な面白さを持っている。
【「四人目の男」濱村博三】
 ミステリー小説。ある婦人を仕事関係で訪ねてくる若者が相次いで、婦人の住む階から転落死する。警察では、事故死扱いをするが、刑事のひとりが、彼女に疑いをもち聞き込みをする。マンションの5階でエレベーターがないという話は、今風ではないが、オチもあって面白い。
【「裁きへの系譜」水郷流】
 少女殺害事件で、DNA鑑定の誤りや検察の人権無視の取調べで、容疑者はむりやり自白され、死刑判決を受けたが、最終的には最高裁で無罪になった足利事件の概要をたどったようなモデル小説。小説であるので、真犯人への言及などもあってもいいかと思ったが、市民の関心として記録するのは良いかもしれない。
【「まわり道」山中正剛】
 高齢になって病気になると、正しい診断をしてくれる病院になかなか出会うことができない。あちこち病院をまわされて、正しい治療を受けるまでをユーモラスに描く。若い頃から高齢者の病気を知っていても、いざ自分が高齢になって病気になると、高齢にならないと経験しないことなので、未知の分野。まごつくことが多い。共感をもって読んだ。
【「文豪の遺言」(5)木内是壽】
 作家の生涯をたどりながら、死に際の言葉を明らかにする。よく調べたもので、大変面白い。
【「北方水滸伝を読む」福島泰吉】
 中国の水滸伝を原作とする日本の水滸伝物語りを巡る話。これも面白い。
【「不況だ、笑って吹く飛ばせ!」出井勇】
 タイトルの通り、笑い話、駄洒落などを面白く書く。秀逸。才気がある。現役の落語家はこういうネタを提供すると使ってくれることがある。
【「切ったり切られたり」外狩雅巳】
 労働者文学的な、労働体験小説。筆力がある。作者は、「この路地抜けられます」(東京経済社)などの小説は、紀伊国屋書店などで、200部以上売れているそうである。私も読んで見たが、リアルな仕事体験や職場体験は、時代の情報があるので売れることが多い。ドキュメンタリー的な明確な文章がわかりやすく良いのであろう。昔の編集者は、短い文で仕事場の状況を巧く伝えるものや、4人~5人の同時会話、群集描写能力があるかとかで、作家的な手腕を評価したものだ。今でも事情は似たようなものがあるのではないか。
(紹介者「詩人回廊」編集人・伊藤昭一)

2010年1月11日

「雪渓文學」第58号(大阪市住吉区)

【「菫」沢辺のら】
とても短い、詩のような文章です。「おんな、という文字すら消えかけてい」る「古ぼけた女の人」のお話です。彼女の過去、現在を一緒に感じているような気がしました。雄弁でなくても、こんなにも伝わるんですね。

2010年1月10日

「九州文學」第8号(福岡県中間市)

【「赤い花」山下濶子】
かわいそうだと思って親切にしたら相手の要求が増大し、追い詰められてゆくことがある。そこのところが説得力のある展開で語られている。「そうだ、そうだ」と肯きながら読み進んだ。サスペンスタッチで飽きさせない。

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